それぞれの御来光

2021年夏。2年ぶりに開山となった富士山。昨年は新型コロナウイルス感染拡大防止の為、近代以降広く登山が一般的になってから史上初の閉山となった。

 

一年経ってコロナの猛威は収まってはいない。さらには緊急事態宣言さなか、1日に800人程が頂上を目指し登っている。午前4時半、登山道は御来光目的の人々の列で渋滞し、高所で空気が薄い為マスクを外す人も多い。

 

人はなぜ富士山に登るのか。そして山頂での御来光を目指すのか。

そこには単なる「日本一の高さの観光地」に登るという事だけではなく、そもそも本来は御神体や霊峰に向かう、「信仰の対象としての富士山」があるはずだ。

 

古からの仏の世界。気持ちばかりのソーシャルディスタンスで数百人がじっと夜明けを待つ。聖と俗が密になる領域。

人それぞれが様々な思いを抱いている。そしてまた新たな日を感じたいと願っているのだろう。

 

見方を変えれば、この世は人類だけの世界ではない。動植物にとっても、はては微生物、ウイルスにとっての世界でもあると言える。

日本最高峰の頂に立ってのごく個人的な達成感、温かい御来光のありがたさと同時に思ったことは、ほんの小さな存在でしかない我々は、何に対しても決して傲慢にならず、自然という見えない大きな力を畏れ敬うという精神性を、今一度見直し培うことが必要なのかもしれない。

 

のぐちけんご 写真家

富士山頂での夜明け

2021年8月11日

緩やかな日常

緩やかな日常

静岡県沼津市、伊豆半島の付け根。目の前が海で裏手はすぐ山という自然豊かな場所に、ひっそりと存在する一日一組限定のキャンプ場がある。晴れた日は海の向こうに大きな富士山が顔を見せる。

夫婦と犬一匹、烏骨鶏数羽。昨年5月から土地をならし作り始め、地に根を張った手作りの生活をしながらゆっくりと営んでいる。廃バスを利用したレトロなバーも併設している。

宣伝をして客足を求めることはせず、あくまで「自分たちのペースで」と夫婦が言っていたのが印象的だった。それは最近のキャンプブームで密になりがちな、レジャー目的だけのキャンプ場ではないということだ。

ドラム缶風呂、バイオトイレ、計画中のサウナやツリーハウス。環境や生態系を意識し、やれることはすべて自分たちで行っている。DIYに裏付けされた「自然の暮らし」から作るキャンプ場は、それゆえに毎日が素朴で新鮮だ。

一日一組限定の客は、このプライベートな空間で、自らの新しい一日と、悠久なる時間を同時に過ごすことになるだろう。そして此処の夫婦の穏やかな雰囲気と、海と山の恩恵の余韻に浸りつつ、自らの日常に帰っていくのだろう。

 

のぐちけんご 写真家

The Old Bus

森のキャンプベースにて

(2021年5月26日) https://theoldbus.net

多摩川の庵人

多摩川の庵人

多摩川の河川敷でカメラをぶら下げ散歩をしていると、つらつらと物思いに耽っていき、都市と郊外、そして自然の狭間のエアポケットのような空間に入り込んだ気分になる。

草の匂いと湿った風、野球をする子供達の声、制服の高校生の自転車、リードの犬と飼い主の足取り。それらを横目に、藪の奥にひっそりと佇んでいるものがある。テントや小屋のような、さながら漫画家つげ義春氏の作品「無能の人」に出てくる石屋のような、そんな栖が存在している。そしてそこで暮らす人々がいる。

私はしだいに彼らとその生活空間に惹かれていき、それらを「庵」と呼び、長きにわたって訪ねては、とりとめのない世間話をし、写真を撮らせてもらうようになった。私にとっては、隠遁者の人生訓を聞きに行くかのような目的でもあった。

実際には隠遁など悠長なこととは程遠い、いわゆる「野宿者」、「ホームレス」と社会的に言われるその厳しい現実と生活がある。経済的な問題、河辺に住むという公共性の問題、暑さ寒さ、体力と健康…。最低限の生活をしているのは言わずもがなである。

しかしそういうものを超えて、なんだか常識や自由、生活や住居という概念の凝り固まったレッテルが剥がされて、日々の価値観は揺らぎ、彼らが河原ですするワンカップ一杯に人生の侘び寂び感までも滲み出ているように不思議に思えてくる。それはここ10年ほど、東日本大震災、原発事故、そして新型コロナウイルスと私達ではどうにもできない未曾有の出来事により、社会や個々の人々の生活環境が目まぐるしく変化しているからでもあるのかもしれない。

庵に住む人々は、「こんな暮らしは嫌だ、動けるうちは、すぐにでも働きたい」と言う人もいれば、

「先のことなど考えても無駄だ、その日生きれば良いさ」とつぶやく人、

「この静かな生活に充実感を見出している。18年ここに居る」と語る人もいる。

普段はのどかな多摩川も、何年かに一度激しい増水があるので、川の流路も度々変わる。洪水の度にその住まいを立て直す人、諦めて去っていく人さまざまであるが、住居であるこの「庵」はあくまで仮の宿であることは確かである。

写真に撮った人と庵が、時間をおいて久しぶりに訪ねると、全く違った風景になっていることもある。写真は記録と記憶の断片として語ってくる。そして私たちに多くを想像させてくれる。

黄昏時におもむろに庵からギターを取り出し、私が知らない昔の曲を気持ち良さそうに歌っていたあの人。また、川のハヤを釣り焚き火で焼いて、まずいと笑いながら食べたあの人は、今はどこに行ったであろうか。

季節の移ろいを感じながら歩き、さまざまに自問自答を繰り返す。川の流れを見つめてから、私は踵を返して現実に戻っていくのである。

 

のぐち けんご

1984 年、神奈川県生まれ。立教大学社会学部卒業後、東京藝術大学大学院美術研究科を修了。大学時代、社会学のフィールドワークから写真を始め、社会の周辺に存在する人々の生活、旅や時間などに関心を持ち、作品を制作している。これまで、インドのチベット難民や世界を放浪する旅人、ネパール大地震に直面した辺境の村家族などを撮影し発表している。

掲載作品のZINE( 写真冊子)https://kengonoguchi.stores.jp/

 

 

無常の社会と「知足」の技術 (2020年10月23日「週刊金曜日」掲載)

— 以下の記事は2020年10月23日発売の「週刊金曜日」に書いたものです。—

 

2019年10月から11月にかけて、『庵の人々 The Ten Foot Square Hut 2010-2019』という写真展を、東京と大阪で開催した。老若男女様々な方々に来廊して頂いた。

「世の中には多種多様な生き方がある。」

「自分もいつホームレスになってもおかしくない。」

「元気、勇気をもらった。」

「普段見て見ぬ振りをしている、なんだか怖い。」

「汚い、みすぼらしい。」

「公共の場所だし、違法なのではないか、迷惑。」

無論、人によって感想や意見は全く異なる。写真展会期中、大学の社会学の恩師とトークショーをやり、個展に合わせた今回の写真冊子(ZINE)も販売した。自分が撮影した被写体である庵の人(現在都内の公園に住んでいる)も個展に駆けつけてくれた。

 

10年という月日の中、繰り返し同じ場所に訪ねて撮影した庵の人々もいるのだが、次に訪ねた際には、都市開発(特に東京オリンピック)の工事で撤去・立ち退きになっていたり、台風や洪水といった災害で庵が壊され跡形も無くなっていたりすることもある。仮の宿はそのまま、あずかり知らぬ明日や人生にも例えられる。この写真展で、ある鑑賞者は「現代の日本で住む、生きるということについて考えされられた。そして2010年代が常に災害の余波の中にあることを実感した。」と言っていた。

 

タイトル副題の「The Ten Foot Square Hut」は、鴨長明の「方丈記」の英訳をそのまま借りてきている。方丈記は、いわゆる「ゆく河の流れは絶えずして〜」の無常観の隠棲文学なだけではなく、平安時代末期の10年の間に、京都の大火災、竜巻、飢饉、大震災が起きた様子が彼の俯瞰的な視点で書かれている。

 

時は流れて現代、ここ10年は東日本大震災、原発事故、そして新型コロナウイルスと3つ挙げるだけでも、平安時代の末法の世に重なる未曾有の災害の時代であると言えるのかもしれない。コロナ禍での国の支援策、10万円の特別定額給付金、果たして庵の人々は受け取ることができるのだろうか。

 

彼らは最低限の庵、彼らなりの住環境を持っている。しかしそれは国が定めるところの住所ではない。政府は、特別定額給付金は全国民に行き渡るようにするとしてはいるが、受け取りには住民票やマイナンバー、身分証明書の確認を必須としている。それを持っていない、定住していない彼らはどうなるのか。住所とは、土地の所有とはそもそも一体何だろうかと考える。以前私は知り合いの庵人に手紙を出したのだが、ちゃんと届いた。宛先は「東京都〇〇区〇〇町〇〇テント村〇〇様」といった具合だ。その人は自分の庵に郵便受けを設置している。

 

あれだけ大規模に準備を行ってきたオリンピックは延期になり、世界規模に広がるウイルスはまだまだ収束の目処がつかない。さらに言うならば南海トラフ地震も近い将来いつ来るかわからない。人為的な私達の努力ではどうにもならないことが多々存在している。大災害が起きた際には、多くの人々が一時的にせよ野宿者的な生活を強いられることは想像に難くない。避難所も少なく、また公的機関が機能不全に陥ることも考えられる。

 

そんな中、庵の人々には知恵やヒントが少なからずあるように思えてくる。それは例えば、今ここにある最低限の条件で身辺を工夫し、日々の生活をブリコラージュしていくこと、または欲に駆られてモノを占有しない、所有の未分化やシェアリングの思想であったりするだろう。コロナ禍の自粛の中、寂しさや無力感、ストレスを感じる人が多くいる中で、もともと孤独や節制に慣れており、一人の時間を楽しんでいる庵の人々も実際多くいる。

 

目まぐるしく変化する無常の現代社会において、安定する唯一の方向は、不安定を受けいれるという矛盾かもしれない。連続した不安定を乗りこなすため、「知足」の技術を身に付け、心の平穏を保っていきたいと思うところである。

 

のぐちけんご 写真家

「庵の人々 The Ten Foot Square Hut 2010-2019」の写真冊子(ZINE)はhttps://kengonoguchi.stores.jp/まで。

庵の人々_04_花見と食品ロス

繰り返される日本の四季。毎年ちゃんと咲いてくれる桜。庵の人々にとって一年で一番の掻き入れ時がお花見である。事実、庵の屋根であるブルーシートは、ほとんどがお花見で大量に廃棄されたレジャーシートである。年一度、庵の修復の季節がやってくる。そしてもちろん、”掻き入れ”はそれだけではない。

 

2010年4月、土曜日、晴れ。渋谷の美竹公園の庵に住んでいるCさんに電話する(Cさんは携帯電話を持っている)。今日これから西郷山公園の花見にアルミ缶集めに行くというので、待ち合わせた。

 

西郷山公園は代官山という場所柄か、どことなく花見客も上品で、若者もお洒落でカワイイ子が多い。Cさんは、ゴミの分別も代々木公園なんかに比べればそれなりにきちんとしていると言った。大体17:00までは公園の管理人がいて、堂々と缶集めはできないと言うので、それまで近くのコンビニに行きビールで一杯やる。マルボロゴールドを吸いCさんは話しだす。

 

昭和33年生まれ、沖縄県宜野湾市出身。6人兄弟5番目。長男は他界しているが両親は健在。高卒後上京して、としまえんで準社員として働きながら夜間の調理師専門学校に通った。しかしディスコに入り浸り学校をサボるようになり、11ヶ月で学校をやめる。遊園地の仕事もやめる。その後スナックで住み込みの仕事を2年、25,26歳の時から平塚の日産車体で季節工を3年やる。平塚では競輪にのめり込んだ。その他転々として、鳶職も一時期していた。酒が好きでその失敗で何回かトラ箱(留置場)に入ったこともある。

28歳の娘がいる(女と別れてから娘ができたことを知った)。娘は今群馬にいて、その子供もいる。群馬に来るように娘に言われるが、行くことはできないとCさんは言った。

 

ホームレス歴20年(サウナや、職場で寝るのも含めると)。最後に仕事に行ったのは今年2月の八王子の飯場。体調が悪くても休ませてもらえず、条件が悪く、給料受け取らずに途中で出てきた。

 

Cさんはアルミ缶回収で大体一週間で一万円稼ぐ。塵も積もれば山となる。

一週間2人がかりで250kgアルミ缶を集めたこともある(そのうちCさん160kg)。それが最高記録。

 

「缶集めは苦しいけど楽しんでやらんと、プラス思考で。良い方に良い方に持っていかなきゃ。」と繰り返し言っていた。

 

「俺は愛想よくやっている。渋谷東交番前のおまわりさんが、わざわざ自分とこの缶をくれたことがある。」

 

「死んだと思ってアルミ缶をやっている。アルミに命を賭けている。アル美ちゃんに…。」

 

Cさんの缶集めは工夫されていて独特だ。台車に大きなカゴを乗せ、さらにカゴの回りに木枠を作り、ゴミ袋を口を広げて木枠に括り、カゴ回り3辺に付けてある。カゴはとりあえず未選別でつぶしていない缶、袋はロング缶、ショート缶、ボトル缶と分けている。

さらに台車には、カーステレオ、ライト、クラクションも備わっている。

因みにカーステレオは電源をつけっ放しにしておくと、自分がちょっと台車を離れた際に盗まれないよう防犯対策になるらしい。人ごみの中ではちょくちょくクラクションを鳴らす。

 

管理人が帰ったところで、仕事モードに入る。といってもこの公園は入り口近くのゴミ箱以外目立たず、皆ここを通る為この一箇所にゴミを捨てていく。Cさんは陣取ってゴミ箱から缶、もしくは手をつけていない酒やお菓子などをピックアップしていく。ゴミ箱のすぐ横にCさんの台車が置いてあるので、そこに缶を捨ててくれる人もいる。

 

「花見のごみ捨て場で缶を集める時は、飲んじゃダメ。飲むのは別の場所で。花見客が見ているので。あくまで真面目に集める。」と言った。

 

しかしそうは言いながら、Cさんは飲みたくなったのだろう、今日は野口くん、ゲストがいるからと理由をつけて、ちょっとつまみ食いをし出し、飲み出し、そして最終的には捨ててあったブルーシートを広げて自分のカーステレオでラジオまでつけて宴会をし出した。Cさん…自分に甘い。

 

驚いたのは、花見客は封を切っていないそのままのものを結構捨てていくことだ。

「なんか余っちゃったねー、持ち帰るのもかさばるし重いし、捨ててこっかー。」みたいなノリなのだろう。桜島(芋焼酎)900ml、お茶2L、スーパードライ、缶チューハイ、ハイボール、スミノフアイス、コーラ、さきいか、柿ピー、その他様々なおつまみや菓子、なんでも捨てていく。

 

なんだか、スーパーや外食産業等の食品ロス、大量廃棄もこんな感じなのかなと切なくイメージする。日本の食品ロスは年間約620万トンで、世界の食料援助量は年間約320万トン。世界の食料に困ってひもじい人々を国連が援助する量の、実に2倍ほどの量を日本は食べ残しや作りすぎ、賞味期限切れで捨てている。昔よく親に言われた人も多いと思う。「世の中には貧しくて、食べたくても食べられない人が沢山いるんだから、ちゃんと残さず食べなさい!」と。

 

中には、「オジサン、よかったら飲んでね。」とキリンラガー350ml、6缶パックを丸ごと持ってきた30代くらいの女性がいた。

「飲み過ぎちゃダメだよ。」その素敵な笑顔に、Cさんは口を開けて言葉が出ず、感動していた。

 

会話を交わした人や、特に女性がこうやって残り物を持ってきてくれることが多い。

Cさんはコミュニケーションを大切にしていた。ゴミ箱の前で人に声かけたり、シートを畳むのを手伝ったり、台車に缶を入れてくれる人がいると、ありがとうとお礼を言った。

ただ、それは今日私がゲストとして来ているから、取材しているから特別感を出して振舞っているのかもしれない。

 

Cさんは、公園内に猫10匹飼っている知り合いがいると言ってその人におすそ分けを持って行った。

 

私も少し酔った。なんだかんだ、ビール3缶、チューハイ1缶、ハイボール1缶飲んでいる。目の前の桜の下で私と同年代くらいの男女が騒いで楽しくやっているのが、急に別世界のように鮮明に見えてきた。バーベキューをやって、歌って、だるまさん転んだをやったりなんかしている。

 

俺も25歳だし、たぶん本当はあっち側の人間だよな、と呟く。

酒好き、金なし、女なしである。

 

男女グループに話しかけると、道玄坂チェルシーカフェのスタッフや常連さんの宴会だそう。

 

0:00を過ぎても、まだ2グループほど花見客は残っていて、朝までコースと見られた。Cさんは、「大量に缶が出そう…」と、鷹の目で見ていたが、限界がきて1:30に切り上げて美竹公園に帰ることにした。

美竹公園まで1時間かかった。大漁なので、台車を押しての坂のアップダウンがキツく、Cさんはヘトヘトになって庵に戻った。私は毛布二枚と敷布団を借り、児童会館の軒下で寝た。

 

土曜の深夜、渋谷。オールして楽しんでいるだろう若者らが、そばでエレファント・カシマシの「今宵の月のように」を大声で歌っていた。うるさかった。

 

東京都渋谷区 2010

 

庵の人々_03_ジンザイ

2010年5月、浅草で野宿した後、隅田公園の道路脇でAさん(62か63歳)に会った。以前はHさんの小屋に居候していたAさんだが、並びの一番奥の小屋が空いたらしく、そこに住んでいた。犬小屋が少し大きくなったくらいの広さである。私は宝焼酎を差し入れた。それをちびちび飲み、小屋の中で小さく丸まりながらAさんは話し出した。

 

新潟生まれ、小さい頃親父が死に、貧乏の中兄貴がいろいろ面倒見てくれた。スポーツ万能で、甲子園に出たことがある。大学に行き将来は先生になりたかったが、余裕がなく、高卒で消防士になる。看護師の女性と結婚し子供2人に恵まれる。

 

しかしその後、職場の部下の借金の保証人になったのが災いし、800万円の負債を被る。最初ギャンブルで返そうとしたが無理で、結果3000万ほどに膨れ上がる。最終的に仕事を辞め退職金をつぎ込む、そして住んでいたマンションも売却した。

 

「小屋暮らしホームレスははっきり言って楽すぎる。だけど、いつまでもこんな生活ではダメ、社会復帰しなきゃいけない。かかあとも、もう一度やり直してぇと思っているんだ。」とAさんは言った。

 

今の自分ではダメだ、社会復帰したい、仕事したい。私が出会う中では、かなり真面目なタイプの庵人である。

 

そもそもは、部下の借金が元凶でこの生活になってしまったというのに、いやむしろ違う、だからだろうか、

「人間は気持ちが、思いやりが一番大事。」とAさんは言った。

 

そして上から「人財、人材、人在、人罪、4種類のジンザイがある」と。

 

1kg集めてでやっと100円ほどのアルミ缶回収をやっている生活なのだが、「缶コーヒーくらい出す金はある」と言って聞かず、ごちそうしてくれた。

この人の根本的な人柄が出ていると思った。

東京都台東区 2010

無名の人々_04_ネコ耳のおばちゃん

写真家の鬼海弘雄さんが亡くなった。ご冥福をお祈りいたします。

生前2回ほどお会いしたことがある。ハンチングとベストが様になっているお洒落なおじさんだった。

 

「ダイアン・アーバスは全然写真撮ってないもん。」と言っていたのが印象に残っている。(彼女は全然撮らずに自殺してしまった。そして俺の方が撮っている、という意味が含まれている。かっけ〜。)

 

鬼海さんの写真集を始めて見たときだろうか、浅草で鬼海さんが撮影した人と同じ人を自分も撮っていることに気がついた。

 

いつも浅草ブロードウェイに一日中立っている、ネコ耳(ウサ耳)のおばちゃんだった。

 

そのおばちゃんも、だいぶ前にいつの間にかいなくなってしまった。

 

そして写真は時代を超えていつまでも残る。

 

東京都台東区 2010

無名の人々_03_傘売りのおやじ

2010年7月のジメジメとした蒸し暑さ、参議院議員選挙日の昼過ぎ、私は新宿ゴールデン街横の遊歩道(四季の道)にいた。

 

追い出し対策だろうか、今は柵ができてしまっていて誰も寝ていないのだが、当時は遊歩道脇の植え込みに何人かの路上生活者が住んでおり寝起きしていた。

 

Sさんは今日はひたすら集めてきたアルミ缶を潰すという。Oさんは飲み物が入っているペットボトルを自販機下の受取り口に入れ、冷やしていた。

 

雲行きが怪しくなってきた。Sさんは日頃アルミ缶の他に、ビニール傘を拾ってきては集めている。雨が降り出すと、通りで売るのである。小雨だと買ってくれない。本降りになったところでSさんは大通りに出た。

 

通りがかる人に声をかけ、「100円でも50円でもいいよー!」と気軽にそして威勢良く売っていく。「女の子はタダでもいいよー!」など、その売り方が何とも言えず気持ちが良い。

 

小銭がたまると、早速 ”鬼ころし” をコンビニに買いに行く。そして戻ってきて飲みながらまた傘を売る。傘がバンバン売れだしてきて、今度は私を使い走りにして買いに行かせる。鬼ころし追加投入。

 

雨が降り、傘が売れ、Sさんは酔っ払う。

 

もう3本以上は鬼ころしを飲んでいる。私も飲む。すぐに酔いが回るであろう安酒の味。そしてSさんは300円を分け前として私に差し出した。私が断っても、「いいから、電車賃だ」と言って無理やり渡してくれた。

 

酔いに任せ、誰これ構わずに次々と声をかけ、傘を売っていた。まるで酔拳のように。

 

その後私は選挙に行った。民主党にとって政権交代後初の大型選挙は、結果は惨敗し、野党の自民党が圧勝した。

 

 

東京都新宿区 2010

↑ 鬼ころしをガソリンのように自身に投入し、その勢いで次々と投票所の前で傘を売るSさん。

 

東京都新宿区 2010

↑ ある夜、駅前でばったり会ったSさん。よく見ると寝袋ではない。コントラバスを入れるソフトケースだった。

「顔まですっぽり入れて寝ちゃうと、楽器と思われて持っていかれちゃうから。顔は出してる。」と言った。

庵の人々_02_魚沼産コシヒカリ

2010年2月、小雨がパラつく中、カメラを持って私は浅草をほっつき歩いていた。

ホームレス、浮浪者と言うけれど、一番「浮浪」しているのは己れなんじゃないかとひとり思いながら。

(案の定、道すがら3人も手配師に声かけられた。)

 

隅田公園の道路脇に何件か並んでいる小屋が気になった。ホームレス支援のボランティアグループが訪ねていたので、彼らが去った後、それらの1つの小屋の扉をノックした。

2m四方もないほどのその中ではロウソクが2本灯されていて、ひっそりとした暖色の光景がふわっと広がり、それは外の小雨のグレー色と対比した。

 

中には2人いた。Hさん(69歳)が元々の住人で、Aさん(62か63歳)は今居候している。何とか2人で足を伸ばして寝ることができるらしい。この小屋自体は10年以上前からあるようで、入れ替わり立ち替わり、空室になったら新しい人が入り….となっているらしい。Hさんは「ヤドカリみたいだね。」と言った。

 

先ほどのボランティアグループから弁当をもらったのだが、もう食べられないと言ってまるまる1つを私に渡した。見ると何種類ものカレーが入ったそれなりに豪華なものだった。どこかの本格的なインド料理屋の余り弁当だろうか。

 

「俺は魚沼産コシヒカリしか食べない。」と体躯のいいHさんは言いきった。

 

米は自分で炊く。向かいのマンションの奥さんがよくおかずの差し入れを持って来てくれる。近隣の奥さんとの付き合いに驚いた。しかもHさんは子供を預かって散歩させたりもしている。さらには三輪車まで買い与えちゃっている始末。

 

聞けばHさんは年金をもらっている。アパートを借りて住むまでの水準にはいかないが、ここでこうして暮している分、家賃と光熱費が浮き、少し遊べる金が出てくる。貯金などはせず、全て使うと言った。友達や知り合いのホームレスに金を貸してあげることもあるらしく、それが戻ってこないことも多い。気前の良さと、後先考えない豪快さがうかがえる。

 

その挙げ句の果てには、なんと風俗に通っていると。鶯谷、80分2万5千円。20歳前後の韓国人の子が多くて良いと言う。あれやこれや、この文章では書けないことをしゃべってくる。最終的には1回も性病にはなっていないと。それを誇らしげに語られてもなぁ。

話盛ってない?

 

しかしその後何回か訪ねたが、つまらん見栄など張らない、周りに好かれ人間力のある人だった。少なくとも私にはそう見えた。

隅田公園で近所の子供を遊ばせているHさんは笑顔だった。

 

ショートホープもカートン買いストックしていたし、一体年金だけでこんな生活できるものなのか?

 

人間の一ヶ月の生活費とは。

 

指を折って色々数えてみる。

 

東京都台東区 2010

Hさん達、桜、建設中のスカイツリー

 

無名の人々_02_Twin Homeless

2010年3月のある真昼、Sさん(元ホームレスで現在は生活保護受給で寮住まい)と新宿駅西口で待ち合わせた。都内の生活保護受給者は都営電鉄と都営バスはタダなんだと、持っていた定期券を見せてくれた。

ポカポカした陽気の中、いつもの場所(小田急デパート入口前の路上)で共に缶ビールを飲んでいるとSさんは言った。

 

「双子のホームレスがいるんだよ。」

 

戸山公園に住んでいると言うので、会いに行こうということでブラブラと歩き出した。

現在は一掃されてしまって跡形もなく綺麗になってしまったが、その当時は新宿中央公園や戸山公園には多くのブルーシートテント・庵があり、特に戸山公園の方には堂々と、明らかに公園内の目立つ場所に群のようにあり、異彩を放っていた。そのすぐ横で、子供達が元気に遊びまわっていたり、学生がサックスの練習をしていた。

 

Tさんは物静かな双子の兄弟で、ともに日雇いの土方をしていた。宝焼酎が好きなようである。荷物は公園内の樹木の横にまとめてあるが、住む庵はなく、夜は2人で芝生にそのままきちんと布団を敷いて寝ている。双子の兄の方は腰を痛めているようで最近休みがちで、弟が稼ぎに行っている。兄弟助け合っているようだった。

 

写真を撮らせてもらい、後日プリントして渡した。

着ている服も、靴まで同じだろうかそっくりである。兄は髪を後ろに束ねており、体の不調のこともあろうか若干痩せている。手には帽子を持っている。

弟は新聞を持っている。

 

双子に惹かれる写真家は多い。ダイアン・アーバスや牛腸茂雄が双子を撮った写真は、写真をやっている人なら誰もが知っているであろうほど有名な作品であるが、一体何がそうさせるのか。

 

何だかまだうまく言えない、

写真と双子の関係性についてもう少し考えてみる必要があるのかもしれないなと思った。何かそういう引力みたいなものが此処には存在しているようだとふと思った。

 

 

 

 

東京都新宿区 2010