生の濃度が変わる瞬間(今夜も焚き火を見つめながら 服部文祥 著)

— 以下の記事は共同通信の<読書日和>に寄稿したもので、2026年5月に各加盟紙に掲載されたものです。—

 

生の濃度が変わる瞬間(今夜も焚き火を見つめながら  服部文祥 著 モンベルブックス)写真家 野口健吾

 ネパールの山奥に撮影に行った際、無意識に現地スタッフに「シャワーはない?」と聞いてしまい、大笑いされたことがある。体を洗いに向かった、あの滝の凍えるような冷たさは今でも忘れない。

登山家・猟師である著者の半生を振り返ったエッセー集「今夜も焚き火をみつめながら」(モンベルブックス)を開くと、「現代の便利快適には行き過ぎた面がある」「山に行けば、人は生命体の身の丈を知る」とある。

できる限り自力で長期の山行をする著者は、登山道を使わず、スマホも持たず、米と調味料以外は釣り・狩猟・山菜採りで食いつなぐ。都市生活でも、雑木林から薪を調達し、庭で野菜を作り、ニワトリを飼育するなど、手間を惜しまず半自給自足を実践している。現代日本社会で葛藤しながらも、体の奥から命を感じる瞬間を追い求めているようだ。

本を閉じて思う。自分は何不自由なく、安心・安全で管理されたシステムの中に暮らしている。それは代わり映えのしない日常や、さらには生の実感の乏しさを生んでいるのかもしれない。メタな思考で一歩引き、鳥の目で世界を俯瞰してみる。人間社会も自然界の一部に過ぎないという事実。食べることは他の命の死を自分の生へと取り込むこと。そして自分もまた、やがて自然に返る。そんな当たり前に気づく。

ネパールの山奥で食べたカレー。ヤギやニワトリを絞めるのは特別な日。スプーンもアルコール消毒もあるわけない、見よう見まねで手でこねながら、五感を駆使して夢中でがっつくと、得も言われぬおいしさを感じた。あの時も生の濃度が少し変わった。

余談だが、以前この著者を撮影する機会があった。実際に本のエピソードを聞き、鋭いまなざしをファインダー越しに捉え、にじみ出る人間性にシャッターを切る。それはカメラに携わる者にとっての一つの醍醐味である。

のぐち・けんご
1984年神奈川県生まれ。路上や河辺で暮らす人々や、世界を放浪する旅人などを撮影している。作品集に「庵の人々」。

 

世界の始まるべき地点(ホームレス文化 小川てつオ 著)

— 以下の記事は2025年10月〜11月に各地方新聞に掲載されたものです。拙著「庵の人々」に写っている小川さん(今も公園でホームレス生活)のブログが書籍化された際に、 書評を書きました。 小川さんは公園生活20年です。積み重なった日々、本も分厚いです。—

世界の始まるべき地点(ホームレス文化 小川てつオ 著  キョートット出版)

  本のタイトルから、先入観で貧困や孤独などを思い浮かべ、ホームレスの薄暗い問題ばかりイメージする方が多いかもしれない。しかし本書はそれとは異なる。
公園に暮らして20年となる著者のブログを基にした長年の記録は、生活の細部や人々との交流が、社会の動きも含めて実に実に色とりどりにつづられている。
「ホームレス」は直訳すると「家のない」ことであるが、世間一般的な住宅ではなくとも、本書に登場する多くの人はブルーシートや廃材で個性豊かなテントや小屋を作っている。
ホームが持つソフトな意味の「居場所」「わが家」といったものは、「テント村」と呼ばれる、人々のコミュニティーや、著者が開く物々交換カフェ「エノアール」に確かに存在している。本書で描かれる生活は世間が抱くホームレスの既成概念を超えており、そこで織りなす事象は紛れもなく「文化」として醸成されている。
私は彼らのような暮らし、多様な人生、生きる知恵について考えさせられ、公園や河原で生活する人たちの撮影を続けて写真集を出版した。本の著者も被写体となっている。エノアールにも何度も遊びに行った。
著者は矛盾や問題も大いにあるとした上で、ホームレスの存在を「もう一つの世界の始まるべき地点」として、その存在の可能性をうたって生活している。
今に限ったことではない。いつの時代もホームレスは存在している。家・土地の所有、住所といった概念が存在する前、もっと大昔から。大げさに言うと人類最初はみなホームレス状態であり、そこから歴史は始まっている。本書を読むとそんなところにまで想像が膨らむ。
ホームレスなんてと人ごとに思う人ほど、本書を読んでみると、さまざまな視点が得られるのではないだろうか。ちなみに著者自身が描いた表紙や挿絵もなんだかゆるく、脱力感があり乙である。

(野口健吾・写真家)